「優しい」≠「甘い」~母の言葉より~

大学合格の当日、夕食の食卓に家族全員がついた時、母から予想すらしていなかった痛烈な一言を浴びせられた。それは「おめでとう」ではなく、「謝りなさい」だった。

今までどれだけの人に迷惑をかけてきたか、ということを認識させたかったという意図から発せられた言葉だった。それ程までに厳しく言われた言葉は、あれが最初で最後だろうと思う。

 

ただ、そのおかげで、周りの人への感謝の気持ちを持つことができた。そして、その一言が、「中卒でも俺は大学に受かったからすげぇんだ!ざまあみろ!!」という少しばかり天狗になっていた自分の心を打ち砕いた。

 

うちのしつけは「優しかった」が「甘く」はなかった「優しい」と「甘い」はまるで種類が違う。

「優しさ」の中には、必ず「厳しさ」が盛り込まれているからだ。つまり、ここでの厳しさとは、最低限の礼儀礼節・モラルのことだと認識している。そのおかげか、確かに小中高通じて、勉強は不得手だったが、友達は多かったし、友達の保護者からも「貴司君は礼儀正しい」とよく言われた。また、「可愛がられる場所が自分の家の中」だけでは無かった。数十年前は、「勉強はできなくてもしつけはしっかりしている子」は多かったと思う。結果的に、「素直」で「頭の中の風通しが良い」子が多かった。

 

つまり、「目はかけられていた」が「手はかけられていない」  ということである。

前者と後者をはき違えている状況もよく見られる。「手をかけられた子ども」は甘えん坊になる。甘えん坊は意にそぐわないことがあると「すねる」という特技を発動する。だから、基本的に「可愛がられる場所が自分の家の中」だけだ。第三者からは好印象は抱かれない。早急に矯正しなければ、社会に出てから大変なことになる。

 

子どものキャパシティが分かっているからこそ、当塾も「勉強しなさい」ということは極力言わないようにしている。耳にタコができるほど「勉強しろ」と言いまくって、「手取り足取り」の指導は、子どもの限界値を把握していない証拠だ。自分自身が本当の意味での勉強での成功体験がない場合、それをやりたがる。

 

私が短期間で偏差値を27から65まで上げることができたのは、「勉強しろ」と一度も言われたことがないことに加え、「頭の中の風通しが良かった」ので、自らの無知を自覚し、予備校の先生方の指示に素直に従うことができたからだと思う。

 

この考えは今の当塾の結果を残している生徒を見ても間違いはない。

だから、今後も生徒には「優しく」接していきたいと思う。

作文・小論文 Part2

〜Part1からの続きです・・・・・・間が空いてしまいました・・・・・・〜

本質的には違いますが、条件作文の延長上に小論文があると考えて下さい。(小論文を書く土台を図るために、入試で条件作文を書かせるのでは・・・と考えています)
高校部を開始して2年。指導する人数が増えるとともに、対応高校の数も増えました。本年度は、生徒から様々な要望が出てきました。特に目立ったのが、初年度では指導することがなかった小論文の添削依頼です。
ある生徒の小論文を見たとき、思わず「学校で小論文の書き方指導はなかったのか」と質問してしまいました。その文章は、小論文ではなく、感想文になっていたからです。質問に対し、生徒の解答は、「していません。」でした。(本当かどうかは確認できませんが・・・)さらに、「作文と小論文の違いが解りません」と言われ、驚きました。
私の高校時代もそうでしたが、「小論文」がどういうものなのかはっきりした指導がなかったように記憶しています。現在でも、一部の高校では、授業として取り入れているものの、「作文」と「小論文」の違いを明確に教えられていないようです。
生徒がそれぞれ仕上げてくるものは、「条件作文」風の文章です。条件作文として捉えた場合、ほぼ完璧ですが、小論文としては、全て書きかえなければならない文章です。
小論文にも「型」があります。(こちらのほうは、著名な先生方がそれぞれ書籍化しております)これは、練習すれば型が身につくというものではありません。なぜなら、身の回りの出来事、時事問題や社会問題に関心を持ち、正しい情報を仕入れた上で、書かなければならないからです。生徒たちにとって、最も難しいことだと思います。
以前に比べ、ここ2、3年の中3生の指導を振り返ると、周りの情報、特に時事問題への関心が低くなっているように感じます。
知的好奇心を持つ学生」は、大学が求める学生像に一致します。また、社会に出た後も世の中の状況を掴む能力が必要になります。
「小論文は社会に出てから役に立たない」と言う生徒がいます。しかし、私は小論文は役に立つと考えます。(と、格好良く書きましたが、私も現役時代に”役に立たない”と考えていました・・・・・・この考えに至ったのは、一般企業を経て、塾講師になってからです。)仕事につくと、論理立てて相手に伝える能力が必要とされるからです。

私の”条件作文・小論文”指導の根幹には、この考えがあります。

不純な動機でもあればいい

「有名人が何人も出ている」という理由で東京の難関私大を第一志望にする生徒がいる。

「見学に行ったらすごくオシャレな感じがした」という理由で大学を決める生徒がいる。

「制服がかわいい」という理由で高校を選ぶ生徒がいる。

 

「マニュアル通りの対応」をするならば、きっとこう言うのが望ましいのだろう。

「そんな不純な動機で進路を選ぶんじゃない、もっと将来の職業観とか、4年先を見据えて…」申し訳ありませんが、私にはそんな対応はできません。

 

よく人は「こうあるべきだ」と言いたがる。我々の仕事で言うと「塾講師は子供に夢を与える職業だ」とか「尊敬されるように、憧れの大人であれ」とかいう感じだ。ただ、そんな定義はどこにも存在しない。「高校中退、ニート歴3回なんて、最低の人間だからな。頼むからこんな大人になるなよ、絶対に真似しないでくれ」と常に生徒に言っている。

 

私は、前述の生徒に「それは素晴らしい!!全力で頑張れよ!!」と声をかけた。不純な動機であってもその生徒が全力で取り組む強力なモチベーションになれば、それは立派なことだからだ。この「不純な動機」を大切にしている。打ちこめる物は大学に入ってからでも見つかる。そこを目指す理由なんか何だっていい。

 

逆に、たいそう立派な目標や夢を掲げていてもまったく行動に反映されていない人もいる。理想だけが高すぎて、過程をすっとばしているからだ。現実が見えていない。

 

勿論、目標をしっかりと見据え、それに向けて努力している者もいるので、不純な動機を全て肯定しているわけではないので悪しからず…

 

自分自身、崇高な理念を持ってこの職を選んだわけではない。この業界でも、そういう講師は、理想とのギャップにショックを受け、早々にドロップアウトしていく。
そもそも大学自体、「遊びたい」という「不純な動機」で選んだ。法学部を選んだのは、「頭が良さげに聞こえるし、人に言ったら自慢できそう」これだけだ。周りの就職が決まり始めた大学4回生の時、「普段は午後出勤だから昼まで寝ていられる!ラッキー!!」という「不純な動機」でこの職を選んだ。新卒の時は最初に入社した大手塾1社しか受けていない。運よく内定をいただいたので、働くことにした。ただ、一瞬にしてそのイメージは粉砕された。だからこそ「この仕事は面白い、奥深い、極めてやろう」と思うことが出来たのかも知れない。

 

この校舎を開校した時も、「他に何も出来る事が無い上、33歳無職はマズい(+_+)結婚もしたいし、生活の糧を得なければ…」という動機で始めた。気付いたら、周りに協力して下さる元教え子の保護者の方がいたり、教え子に励まされたり…せっかくやり始めた以上、乗りかかった船だ。最後の最後までお客様を大切にしたい、だから高等部までやり始めた。気付いたらもうすぐ4年。勿論今は、本気で「岐阜の教育を変える」というテーマを掲げて、日々、試行錯誤している。

 

要は、今やっている事を必死にやり続けたら、自然と次の目標なんて見えてくる。「目標が無い」という人は、目の前に与えられたことを全力でやり遂げることこそが大切だ。確かに「熱い理念」は当塾には無いのかも知れない。ただ言えるのは、当塾の講師は、並外れて努力している。今日の授業を失敗したら、明日は生徒が全員来なくなるかもしれない、くらいの気概は持っている。そして、適正価格を度外視したサーヴィスを提供させていただいている。

 

「塾講師はこうあるべきだ」という既成概念は、求められても応えることはできない。むしろ、異端であることが最大の褒め言葉だと思って「型」を破り続けます。

無知を知る

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先日、保護者の方からご丁寧にお電話をいただいた。「塾の授業の満足度が非常に高い」ということで本人が大変喜んでいるとの内容だった。責任を持って大学受験まで末永くお付き合いをさせていただきたいと思う。

 

前職時代、「水野さんの授業は型破りすぎて真似ができない」とよく言われた。自分でもそう思う。型破りな授業を実力不相応の講師が行うと、クレームの嵐だ。いわば諸刃の剣にもなりえる。

 

写真は、若い頃作成した「板書案」である。黒板のどこに何を書くか、どこで生徒に当てて、どこで言葉をかけてetc.全てがぎっしり詰まっていて、いわば台本になっている。全学年、全教科、全単元を合わせると、おそらく700~800枚はあると思う。命の次に大切と言っても過言ではない。今でも、授業中に思いついた良い言い回しなどは必ずこの「板書案」に追加で記している。生徒に高いものを要求する講師が毎年、同じ授業を焼き増ししてはいけない。

 

なぜここまでするのか。それは、自分が「センスが無い、頭の回転が遅い」ということを自覚しているからだ。そういう人間は人の何倍も努力しなければならない。しかし、それを続けると「センスらしきもの」が会得できる。それに加えて今までの自分の人生経験から得た体験談などを通して、日々、生徒に言霊を飛ばしている。結果として、それが前職での突出した生徒支持率につながったにすぎない。

 

当塾では、10人から60点を付けてもらうよりも5人の人から120点をつけてもらうことを目指す。だからこそ、自分で校舎を開いた。

 

確かに、一般的に行われているような「万人受けするごく普通の授業」もやろうと思えばできる。何もないところからオリジナルは生まれない。「型」を持っているから「型破りなこと」ができるのである。

 

これは、生徒においてもあてはまる自分に合った勉強法」というものをはき違えてはいけない。成績も伴わないのにそんなものは存在しない。こちらが提示した「型」を完璧に寸分の違いもなく、ただひらすらマシーンのようにこなせるようになったその先に「自己流」というものが生み出せるのだ。少なくとも偏差値が70に満たないうちはそれは不可能だ。それが出来ているからこそ、上記の生徒は結果を出すことが出来ているのだ。

 

「無知の知」というソクラテスの言葉がある。

 

本当に有能な人間は自分が無能であることを自覚している。決して見栄を張ったり、知ったかぶりをしたりしない。

暇人になるな

 

「時間がない」という生徒に限って時間が有り余っている。家に帰っておやつを食べて、ゴロゴロして、テレビを見て、「あ、明日の宿題しなきゃ、ヤバい!!」というパターンが容易に想像できる。

 

これは「生活習慣病」だと私は位置づけている。

だから、「時間が無いから宿題ができませんでした」という生徒には、「君はよっぽど忙しいんだね」と挑発的に言うようにしている。そんなことを言っている時点で暇人な証拠だ。

時間は自らひねり出せばいいだけ。

暇だからSNSなどの媒体を通して人の悪口を言う。

暇だから他人と自分を比べたがる。

暇だから卑屈になったりすねたりする。

社会人でも学生でもそうだが、毎日を充実して一生懸命生きている人は、少なくともそんなことを考えている暇はない。時間がもったいないからだ。

 

 

自分自身で例えると、フルで休みが訪れるのは二か月に1回程度だが、そんなに鬼気迫っていっぱいいっぱいの表情はしていない。生徒たちから見れば、より一層楽しそうに仕事をしているように見えているはずだ。

特に、高等部をやり始めてからは、時間の使い方が格段に上手くなった。

 

 

まず、出勤して次の日の授業の準備を手短に終わらせる。いつイレギュラーな面談や電話相談が入ってもいいように。そして、その日の授業の最終チェック+雑務。授業が終わったら電気代節約のためすぐに帰る。帰って夕食&片付け。午前2:00くらいから翌日以降のプリント作成&授業案を練り、配布物の作成などをする。遅い時で寝るのが午前5:00。基本的に土日祝日と学校の長期休暇以外は、午後出勤なので、必要最低限の睡眠時間は確保できる。家族サービスは、平日の午前中を上手に活用している。数少ない休日も友人と会ったり、違う職種の人と交流をすることで、見識を深めるようにしている。

 

時間は誰でも24時間平等に与えられている。

 

生徒も同じで、部活動をしっかり行い、忙しい生徒の方が圧倒的に時間を上手く使う。物事の優先順位も分かっている。ただ、気を付けなければいけないのは、親の過干渉で習い事をしすぎて本人がキャパ越えを起こすケースも多い。その見極めは非常に大切だ。忙しいながらも結果を残す生徒は、習い事の優先順位の1番を塾においている。

 

 

かつてナポレオンはこう言った。

「何かをやらせようと思ったら、一番忙しい奴にやらせろ。それが物事を的確に済ます最前の方法だ」

 

※自習室に来ると、その雰囲気に圧倒される。どんどん塾を活用して欲しい。